日本の建築業界にもっとも影響を与え、多くの西洋建築を残した外国人建築家は、いわゆる正式な建築技術訓練を受けていない。ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(1880-1964)は米国カンザス州で生まれ、コロラドカレッジに通った。日本に渡ったのは1905年、英語教師として働いていたが、完全に独学で建築を学び、生涯を終えるまで1600以上もの建築を手掛けた。彼の輝かしい功績は、独学で頑張っている人、そしてもしかしたら英語教師たちをも勇気づけるものである!
ヴォーリズはその生涯のほとんどを、琵琶湖のほとりにある近江八幡の小さな町で過ごした。信徒宣教師としてYMCAと密接な関係があったことから、その地方本部会館を彼がはじめて設計することになった。現在でも20以上の建築物を現在の近江八幡市で見ることができる。1918年には、「メンソレータム」軟膏の輸入、のちに製造販売をおこなう会社を創業し、広く日本に普及させた。その利益はキリスト教の伝道支援のために使われ、日本各地にプロテスタントの教会や大学のキャンパス(関西の関西学院大学や同志社大学、福岡の西南学院大学など)が建設されるきっかけとなった。ヴォーリズが設計した軽井沢のテニスコートは、当時の明仁皇太子殿下が将来の妻である正田美智子さんとの出会いを果たした場所でもある。
横浜にはヴォーリズの建築が2棟現存している。1931年に建てられたハーフティンバー(半木骨造)でチューダー様式の建造物で、現在は横浜市指定文化財となっている、山手の女子高、横浜共立学園の本館がそれである。もう一つは、1937年に建てられたYMCAチャペルだが、これは慶應義塾大学日吉キャンパス内にある。慶應大学はキリスト教系の大学ではないため意外であるが、これはヴォーリズが大阪の大丸百貨店を手掛けたあと、慶應大学出身の当時の社長が彼を推薦したことがきっかけで建設されたものだ。ヴォーリズはこのような財界とのつながりが深く、華族である一柳家令嬢との結婚は彼のキャリアの一助にもなっただろう。
真珠湾攻撃の前夜、ヴォーリズは日本国籍を取得した。しかしながら、彼は日本の敗戦後、マッカーサー元帥が信頼する顧問となり、米国進駐軍と皇室を結び付ける役割を果たした。彼は天皇が「人間宣言」を出す手助けをし、皇室の存続に貢献した。彼のキャリアはその後も数十年にわたって続き、ヴォーリズの死後も彼が設立した一粒社ヴォーリズ建築事務所がその思いを継承している。