釜石に行ってきた。俺は3.11以来、東北を訪れるときは身を引き締め、自問自答をしながら慎重に物事を見聞きするように心がけている。釜石に着いたのは夜の9時ごろ。昼から何も食っていなかったので、食事処を探しながら辺りを歩いてみた。
3.11当時、使命感に駆られた多くの写真家が震災の写真を様々な切り口で撮影し、発表した。それは写真家として正しい行為で、逆にそれができないのは写真家として失格なのかもしれない。ちなみに俺はそれが出来なかった。情けないことに、まっすぐ向き合うこともできなかった。
半年くらい前、ある大物写真家に東北を撮った未発表作品を見せてもらった。その時受けた衝撃は忘れられない。なぜなら、それまでによく目にしていた東北の写真とは別次元の力を持っていたからだ。おもわずその作家に、なぜ発表しないのか聞いてみた。
「私が報道カメラマンならば悩むことなく発表するよ。でも私は写真家だからね。この写真は私が撮ったのではなく、私はその場の力によって撮らされたんだよ。だからこれは私の作品ではないんだ」という答えが返ってきた。
俺は「写真」というものは被写体ありきの表現手段だと思っていた。つまり、これだ!という被写体が無ければ、写真は成立しないと思っていた。しかし、本当の写真家は、なんでもないいつもと変わらない世界をも、特別な被写体に仕上げていく力を持っているのだ。
釜石の漁港で、夜10時。ほとんどの店が閉店している中、暖かい光が漏れていたお店が「誰そ彼(たそがれ)」だった。腹が減って、寒くて、すがるように店に入った。酒が飲めない俺に店の店主は、「この辺りじゃ、この時間に飯が食えるのはウチぐらいだ、メニューは選べないが、食ってけ」といって山盛りの刺身と熱い味噌汁を出してくれた。