横浜に住む人もこの街を訪れる人も、横浜外国人墓地のことは知っているだろう。元町を見下ろす山手の崖の上に存在し、横浜市を象徴する観光名所の一つだ。横浜の数えきれないスナップショットには、灰色の墓石と前庭の白い十字架がいくつも登場する。その起源は1854年に遡る。ペリー提督の戦艦ミシシッピ号に乗船していた当時24歳の海兵ロバート・ウィリアムズが、日本の地に埋葬されたことが始まりとなった。ウィリアムズの墓は一時的なものであったが、1861年以降5000人以上が18,000平米の敷地に眠っている。横浜でその生涯を終えた人々は宗教や国籍もさまざまだった。この場所の雰囲気は決して重苦しいものではない。景色が大変美しく青空が広がる暖かい日には、この地の歴史と感謝の気持ちを彷彿させる。この墓地は民間で運用されており、週末の午後には観光客も多く訪れ、墓地の維持運営へ向けた募金も呼びかけている。
しかし、この有名なランドマークは横浜に存在するたった一つの外国人墓地ではない。近くにある別の外国人墓地は、観光地ではなくひっそりとした雰囲気を漂わせている。JR山手駅から徒歩圏内にある根岸外国人墓地は、1902年以降横浜市によって運営されているが、関東大震災で山手の墓地が使用できなくなるまでの間、ほとんど使用されていなかった。1200の墓がある一方、墓石があるのは160のみにとどまる。その多くには1923年9月1日という悲惨な死亡日が刻まれている。この場所を訪れるときは、震災により突然断ち切られた悲劇的な人生に思いを巡らせてほしい。
19世紀後半から国際貿易が拡大していくと、中国人商人とその家族が横浜に移り住んできて、最終的には他の外国人の総数を上回る一大勢力となった。1892年に中国人コミュニティは、中区と南区の境にある大芝台の丘に、中華義荘という中国人墓地を建設した。元の建物である地蔵王朝は、横浜市内に残る外国人建築家による最古の建物で、元町公園内にあったアルフレッド・ジェラールの工場で造られたレンガを使用して、広州の職人によって建てられた。中華義荘にある地蔵王朝は、横浜市指定有形文化財として認定されている。高い尖塔のある塔が後から建てられ、周辺の丘陵地帯のあらゆる場所から眺めることができる。中華人民共和国と中華民国(台湾)では地政学的な緊張状態が続いているが、この墓地では両コミュニティの世代間は対立することなく隣り合って眠っている。
これら3つの外国人墓地には一つの共通点がある。日本人の墓も多く含まれているということだ。外国人居住者の日本人配偶者や、山手のキリスト教会の日本人会員の墓が含まれている。しかしながら、今回ご紹介する4つ目の墓地はこの点において異なる。英連邦戦死者墓地は第二次世界大戦中に捕虜収容所で亡くなった、イギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、インドの2000人を超える兵士と船員が埋葬されている。世界的なコモンウェルス戦争墓地委員会によって管理されており、保土ケ谷区の閑静な住宅地の中に、格調高く荘厳な追悼の墓碑が建立されている。管理者によって芝生が美しく手入れされており、連邦自治領固有の品種も含んだ木々に囲まれ、荘厳で静かな雰囲気が漂っている。墓は国籍ごとに別々の区画に分かれているが「分割されていないインド」という区画には、後にインドとパキスタンに分割された地域の大英帝国の兵士が埋葬されており、中国人墓地と同様に仲良く隣り合っている。リメンブランス・デー(第一次世界大戦集結の1918年11月11日を祈念した日)とANZACの日(4月25日)には毎年追悼式典が行われている。山手の外国人墓地でも同様に、フランスそして連合国軍の兵士の栄光を讃え、追悼式典が厳粛に行われている。いずれも国籍を問わず一般公開されている。