横浜が国際貿易港として開港した1859年から、今年で165年目を迎える。京都1230年の歴史や、江戸東京400年の歴史と比較すると、横浜市の歴史はまだ浅いといえるだろう。さらに1923年の関東大震災、1945年の横浜大空襲といった天変地異により、当時から現存している建物はほとんどない。1923年より昔の建築で現存するものは12棟だけだ。しかしそれらはまるで、これまで日本が歩んできた変貌の縮図のように、現代構築された都市の景観と融合した西洋文化として、一世紀以上経った今もなお、横浜の人々そしてこの土地を訪れる人々への名所となっている。
20世紀初頭に、横浜の街を形作った二人の先駆的日本人建築家が、妻木頼黄(つまきよりなか)と遠藤於菟(えんどうおと)だ。後述するが彼らの実績は連名で現在も横浜の代表的建築として保存されている。二人は、東京駅丸の内駅舎や日本銀行の設計で有名な、辰野金吾(1854-1919)の生徒だった。辰野の建築は他にも日本全国40以上の銀行で見られる。辰野は明治時代に最も名を馳せたイギリス人建築家ジョサイア・コンドル (1852-1920)の高弟だった。
コンドルと辰野のDNAを受け継いだ妻木と遠藤は、西洋の影響を受けた建築家の次世代をリードした。数歳年上だった妻木頼黄 (1859-1916)は、工部大学校(東京大学工学部の前身)とコーネル大学で教育を受け、横浜の2つの赤レンガ倉庫(1911年と1913年)の設計に携わった。地震の耐震性への課題に直面した際には鋳鉄製の内骨格(現在でも見ることが出来る)を採用し、1923年の震災を生き延びた。2002年に改装して現在は港のフォーカルポイントになっている。
木材の使い方にも熟達していた妻木の建築は、山手のカトリック山手教会隣にあるカトリック横浜司教区司教館の設計(1910年)に、その優美さが残されている。その他にも巣鴨刑務所(1896年、現在その跡地は池袋のサンシャインシティ)や、1911年には日本橋(1964年以降首都高速道路に覆われて見えなくなっている)など多様な挑戦をつづけた。
1905年に遠藤於菟 (1866-1943)は、日本人として初めて独立した建築事務所を設立し、その拠点を横浜に置いた。彼のもっとも重要な建築はこの横浜の地に残されている。日本大通りにある三井物産横浜ビル(1911年竣工)は、日本初の鉄筋コンクリート造の建物で、これまでいくつもの映画やドラマに登場している。
1923年の震災で復旧・復興の流れが加速し、遠藤のような著名な建築家は多忙を極めた。伊勢山皇大神宮を訪れると神明造の伝統的な社殿建築のなかに、モダニズムの直線的アプローチを採用した遠藤の高い能力を見ることができるだろう。また、馬車道交差点界隈は、1926年に彼が設計した横浜生糸検査所とその関連倉庫で占められている。日本の近代化に大きく貢献した生糸貿易で、世界トップクラスの評価を維持するため、品質管理の検査場だった旧建物は、1993年に横浜第二合同庁舎として再建された。そして3つの関連倉庫のうち一つは、横浜北仲ノット複合施設の一部として2020年に再開発された。北仲ブリック&ホワイトとよばれるこのエリアには、優れたクラフトビール醸造所である里武士馬車道や、ビルボードライブ横浜が入っている。遠藤於菟ゆかりの建物で彼の功績を讃えて乾杯!
妻木と遠藤は重要な歴史的建造物で同一の功績を残している。北仲ノットのにぎやかな通りを挟んだ正面にある、横浜中心部で最も特徴的な建造物の一つだ。1904年に大蔵省は妻木とその部下に、金や銀の地銀を含む、外国為替を専門とする横浜正金銀行本店の設立を命じた。威風堂々とした石造彫刻で、内部は鋳鉄のインフラで支えられており、これまでの歴史を乗り越えてきた。―120年、そしてこれからもその歴史は続いていくであろう横浜最古の現存する西洋建築。銀行機能が停止した後は、この建物は1967年に復元され、神奈川県立歴史博物館として保存活用されている。ネオバロック様式のデザインと銅製のドームは離れた場所からも異色の存在感を放っている。20世紀初頭の雰囲気を味わいながら博物館の展示を楽しめる、是非訪れてみたいスポットだ。また、館内にある「喫茶ともしび」は、神奈川県の社会福祉法人が運営する喫茶店で、そこで働くスタッフが元気いっぱい心のこもったおもてなしで迎えてくれる。