19世紀の横浜を象徴するものといえば、赤レンガの建造物だろう。代表的な例として、横浜開港記念会館(通称ジャックの棟)は赤と白のレンガが交互に並び、時計台の堂々たる姿は誇らしげでもある。また、新港ふ頭の赤レンガ倉庫は、関東大震災や世界大戦、解体の危機など数々の困難を乗り越え、100年近くたった現在では横浜の海岸線における象徴的存在になっている。しかし、誰が最初にこの赤レンガを横浜にもたらしたのか知っているだろうか。その答えは元町公園に行けばわかる。
横浜の明治時代の建築は、フランス人のアルフレッド・ジェラールが製造したレンガで建てられた。彼は、1837年にフランス北部の街ランスで生まれ、1863年に無一文の状態で日本にやってきた。当初、彼は小麦やワイン、ソーセージを売っていたが、いつか自分でビジネスを立ち上げようと心に決めていた。1867年、山手の傾斜地(現在の元町公園)が利用可能になったと聞いた彼は、そのチャンスを逃さなかった。恵まれた水源(キリンビールの醸造にも使用されていた)を利用し、地下のろ過タンクを設計。「Gérard’s Navy Waterworks」 は、軍艦など欧州へ向けて出発する船舶に水を供給していたが、この水は船員たちの間で「インド洋に行ってもきれいなままだ」と評判を呼んだ。
実業家として頭角を現しはじめたジェラールは、1873年に蒸気動力の工場を立ち上げ、レンガやタイルを製造し大きな利益を得た。ジェラールの製品で建てられた初期の建物の一つに、美しい造りのドイツ帝国海軍病院があるが、その後、レンガ造りの建築はすぐ広く浸透するようになった。当時、火事が多発したがレンガの壁と瓦屋根は災害を防いだ。彼は山手にいくつもの土地を所有、貸し出しており、1874年までにはほかのどの商人よりも多くの土地を管理していた。まさに彼は「横浜を造った男」である。
ジェラールは1878年に引退し故郷のランスへ戻り、膨大な数の日本美術や25,000冊の書籍を故郷へ寄付した。ランスにある彼の墓には石灯篭と鳥居が飾られている。彼のレンガ工場と給水業は後継者によってその後も繁栄をつづけ、ジェラールの給水のための施設は「水屋敷」と呼ばれ、1923年の関東大震災時にも多くの被災者がこの水に助けられたという。
しかしながら、赤レンガ倉庫のように鉄の基礎を伴わないレンガ造りの弱点が、地震によって浮き彫りになった。1923年以降の横浜の再建は、鉄筋コンクリートが主流となっており、今日赤レンガ造りは黎明期の横浜の象徴となっている。