風光明媚な「ブラフ(崖)」と称される山手の丘は、横浜の有名な観光地の一つだ。眼下に広がる港の光景を一望でき、数々の緑豊かな公園や庭園、西洋風建築物や歴史的な墓地を見ることができる。しかし1860年代には違う理由で人々が多くやってきたのである。元々の外国人居留地は現在の山下町にあったが、伝染病が流行りやすい沼地だったため、高台にある山手はその避難場所としての役割を果たしていた。維新志士の襲撃、1866年の大火、そしてマラリアの蔓延などもあり、当時居留していた商人・外交官たちは、弱体化していた徳川幕府に対して、英仏陸軍駐屯地に近い場所に別の居留地として解放するよう迫ったのである。ブラフはすぐに横浜だけでなく日本における西洋文化の発信地となり、明治新政府も長年おこなわれてきたキリスト教迫害政策をしぶしぶ改め、英仏独その他列強に倣うことを推奨した。
横浜開港から13年後の1872年までには、政治的安定と治安維持により、この小さな居留地は家族が日常生活を営む場所として発展していった。それにともない、教会、劇場、スポーツ施設やクラブが整備されていったが、子女教育の場はないままだった。そこで、フランス人居留民はベルナール・プチジャン司教に、カトリックの修道女を招いてこの状況を改善してほしいと懇願した。するとプチジャン司教は、キリスト教が合法になったばかりの状況で、修道女達が孤児、貧民、病人をケアすると、キリスト教のイメージ向上につながるいいチャンスだと捉えたのである。
アジア地域で、キリスト教教育と社会奉仕に関して草分け的存在だったのはマチルド・ラクロー修道院長(1814-1911)だ。彼女は東南アジアで過ごした20年の間に、シンガポールとマレーシア各地に女学校と孤児院を設立した人物である。「幼きイエス会(パリのサンモール街に拠点)」を1662年に設立して以来、伝道というよりは万民の教育を目的として活動していた。すでに58歳だったが、マチルドは新たな挑戦に挑むため、シンガポールから横浜へ、フランス人とアイルランド人の修道女4人と共に来日した。その後の10年間で3人は亡くなったが、マチルダは96歳でその生涯を終えるまで活動を続けた。
彼女が設立した学校が、今年150周年を迎える現在のサンモール・インターナショナル・スクールである。創立から150年経った今、同スクールはアジアで最も長い歴史を誇り、世界でも有数の歴史ある学校となっている。創立当初からキリスト教を教える多国籍な学校であり、多様な信仰、文化、言語をもつ女学生が集まっている。教室で使用される言語は、時代とともにフランス語から英語へと変わっていった。1899年、治外法権が撤廃されると日本の女学生も入学を許可され、その翌年にはサンモールの修道女達により、現在の横浜雙葉学園である横浜紅蘭女学校を開校した。雙葉学園は現在で5つあり、雅子皇后、美智子上皇后がご卒業されたことでも有名である。
設立以来、サンモールは150年間同じ場所で時の移り変わりを眺めてきた。物理的にも、精神的にも崖っぷちの場所である。1884年の台風、1894年の地震、そして12人の修道女、多数の孤児と生徒が犠牲となった1923年の関東大震災と、次々起こった災害で建物が崩壊しても、授業は続けられた。1945年の米軍による空襲で学校と女子修道会が焼けた後も、その疎開地の軽井沢で授業が続けられたのである。
日本が降伏した後は、がれきの中で授業は再開された。1947年にはフランス人修道女達が精神的に弱ってくると、若いアイルランド系の意欲的な修道女によって強化された。その中の一人、29歳の修道女、カーメル・オーキーフ(1918-2011)は、62年間にわたりサンモールの再建と強化に力を尽くした。1967年から1991年の間学長を務めていたカーメルは、国際バカロレア(IB)ディプロマプログラム(DP)を1985年に導入、日本では3校目の導入校となった。また1973年にはモンテッソーリ教育を導入し、日本で最初に国際中等教育証明(IGCSE)を取得できる学校となる。さらに、フランスの教育に準拠した初等教育を実施する教育機関「École française de Saint Maur à Yokohama」として認定もされている。
1980年には徐々に共学制に移行する。男子生徒の数は最初こそ少数だったが、現在は各クラスの半数を占め、スポーツやその他活動の幅を広げている。修道女達の高年齢化と引退により、教師達と運営者がその役割を引き継いだ。シスター・カーメルの後任として、1991年にジャネット・トーマスが理事長、2013年にはキャサリン遠藤が学園長を務めている。彼女たちは学問的水準をさらに引き上げ、サンモールは数学、自然科学、日本語、日本文学、芸術といった分野で輝かしい功績を残している。今日では、サンモールの卒業生は世界各地の名門大学へと進学している。
こういった変化にもかかわらず、教育の質を下げないために全校生徒500人以下に保っているので、校内の雰囲気は和気あいあいとしていて、結びつきが強い。1クラスの人数は少なく、上級生1Bカレッジレベルのセミナーで平均9名。サンモールは関東平野リーグで最小人数であるにも関わらず、2021年には学校別対抗戦でスピーチコンテストと、学力の高さを示す大会「ブレインボウル」で優勝している。
1980年以降、10年毎に将来への投資として校舎の建造を行ってきた。図書館改築(1994)では蔵書数を増やし、高い天井と高い窓を有する建物へと改築した。美術センター(1998)では先進的デザインと品質の高さで建築設計賞を受賞。サイエンスセンター(2011)では最新式の設備を整えている。最近では旧体育館(1966)を建て替えて「Cougar Cafe, Activities, and Sports Center」(2021)を整備した。ここではさまざまな最新のスポーツを行うことが可能で、また山手の崖には驚くべき技術力で支えられた魅惑的なカフェテリアを備えている。
この数十年、山手町では4つのインターナショナルスクールが運営されてきた。1955年、スペイン人修道女によりサンクタマリアインターナショナルスクールが設立され、30年にわたり、女学生を教育してきた。もっと長い歴史を持つのはセント・ジョセフ・カレッジで、サンモールの隣に1901年に開設された学校である。その99年間の間に、何世代もの男子学生がこの門をくぐったが、その中には1987年にノーベル化学賞を受賞したチャールズ・ペデルセンもいた。セント・ジョセフ・カレッジは残念ながら投資と事業に失敗し、2000年に廃校となり横浜での使命を終えている(当時の市長のキャリアにも影響を及ぼしたかもしれない)。
それとは対照的に、横浜インターナショナルスクール(YIS)は1924年に開校以来、その情熱と成功の内に規模を拡大し、現在では100周年も目前に迫っている。「インターナショナルスクール」との新しい呼称を使った最初の学校で、その校舎は山手町のランドマークでもあった。同校は、2022年1月に隈研吾(オリンピックスタジアムの設計者)の設計による新校舎を本牧エリアに建造、移転している。
横浜にはほかにも「ホライゾンジャパンインターナショナルスクール」があるが、それ以外にも中国語、韓国語やドイツ語で授業が行われる学校も点在しており、日本で最も国際化が進んだコスモポリタン都市という名前にふさわしいといえよう。
150年前に創立したサンモールは、山手で最初に、そして最後に現存する学校となった。サンモールは現在も成長し続けている。その歴史は横浜とともに刻まれ、横浜以外では存在しえなかったものである。